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マインドとハートを開く

霊的修行には、大きく分けて二つのアプローチがあります。

一つは、よい行い、祈り、正しい行動、犯した罪を機悔する、信仰に関する考え方を受け入れていく、という方法です。この種のアプローチを実行することによって、その人が持っている否定的な性質というものが、しだいに徳に満ちたエネルギーへと変わっていきます。このエネルギーは、元気や無極にとても近いものです。

これに対し、タオでは、もう一つ別のアプローチをとっています。それは、気のからだ、さらには霊体の形をとったエネルギーの乗り物を作る、ということです。これらの微細身は、言ってみればスペース・シャトルのような役割を果たしています。つまり、意識がこの乗り物に乗って旅をしていき、自分がやってきた源への帰還を果たすわけです。天の世界について描写しているシステムもいくつかあるようですが、それらは、そこへ戻る方法は信仰だけである、と説いているようです。信仰もたしかに役に立つでしょうが、肉体の死がやってくる前に待望の天の世界に、より直接的に到達するための手段として、信仰とはまた別の準備をしておくこともできるのです。

タオでは、魂体と霊体を作り上げるために徳のエネルギーを培い、生命力を養い育てていくことは、霊的に成長していくためには重要であると見なしています。双方のアプローチは官接に関係しています。なぜなら、からだの内部のエネルギーを保持し、リサイクルさせて生命力へと練り上げていくことによって、マインド(思考) とハートが聞かれて安らかになり、愛と喜びと幸福、そして尊敬や礼節の念を呼び起こすことができるからです。こうした仁徳の質はさらに、優しさや穏やかさ、勇気や寛大、公明正大さなどの徳の質をも呼び覚まします。

ハートは、あらゆる徳を一つに集めて慈悲のエネルギーに変容させる鼎のようなものと考えてもよいでしょう。慈悲のエネルギーは、私たちの霊性にとっては不可欠の質です。また同時に、私たちが持っている霊性や生命の精髄は、一つの力として結び合わされ、気のからだ(乗り物)と霊体(乗り物の船長)を産み出します。私たちは、この世を去って行かねばならなくなる前に、これらの微細身と意識とを一つにつないで本源へと還っていくことができるのです。

愛のエネルギーについて理解する

徳について学ぶとき、私たちは、愛というものをそのエネルギー的な影響力という観点から吟味してみる必要があります。タオの考えでは、愛は思考が作りだしたものではなく、心臓が持っている内的なエネルギーである、としています。ふつう、愛は肯定的な力として考えられていますが、私たちが愛と呼んで、いるものの中には、実際に、私たちが人生の中で経験するあらゆる否定的なエネルギーをいっしょに合わせたものよりも、さらに否定的なエネルギーを指しているものさえあるのです。一例をあげるならば、過剰な愛は、あっという聞に、最も辛く破壊的ですらある憎しみに変わってしまうことがよくあります。

また愛というものを誤解していると自己犠牲というかたちをとって、否定的な感情で生命力を枯渇させてしまう、ということも起こりえます。本当の慈悲というものは、性的な衝動を手なずけ、心臓の中にある慈悲のエネルギーと性エネルギーとを一つに融合するところから産みだされます。私たちが個人として持っているエネルギーには限りがありますが、宇宙に遍満する愛のエネルギーは決して尽きることがありません。この無限の愛の水源とつながる方法を学べば、私たちはいつも自分自身と、そして他の人々をも十分に愛することができるのです。

しかし、いかにしてこうした高次のエネルギーを吸い込んで、エネルギー供給を増やし、補充していくかを学んでいなければ、余っている分以上の気まで使い果たしてしまうことになります。そしてついには、そのために性エネルギーは枯渇し、心臓の中にあった愛も燃え尽きてしまうのです。私たちは、人生のありとあらゆるところに愛が存在している、と考えているものです。

ところが、こうした考えが広がりすぎているために、かえって、愛とはどういうものか、そして愛は本当はどんな感じのするものなのか、ということにはだんだんと鈍くなってきている、というのが現状のようです。私たちは個人的には、愛とは自分の傍らにいる誰かが与えてくれるものと期待していますし、霊的なレベルでも自分の理想像となっている誰かがくれるものと思っています。しかし、言葉や他人がしてくれる行為だけでは、私たちの渇きはとうてい満たされることはありません。

夢を見ているときでさえ、私たちは愛を探し求め続けていますが、これは誰かに受け入れてほしい、一緒にいてほしいという私たちの持つ内的な渇望を表しています。愛とは何かという問いは、何世紀ものあいだ男と女を悩ませてきたテーマです。しかしその答えは、私たちの身の内だけに見つけることができるのです。

自分を愛することを学ぶ

タオの道士たちは、人は自分自身を愛することができなければ本当の意味で他の人々を愛することもできない、と諮っています。これこそが、人を愛することを学ぶための重要なステップなのです。なぜなら、自分のからだの必要性を満たす分以上にエネルギーが満ちあふれでいるときに、初めて愛のエネルギーを自分以外の対象に押し広げていくことができるからです。

自分の中には十分には持っていないのに、なけなしのエネルギーを強いて際限なく与えようとすれば、それは一種のストレスとなり、小周天を通る経脈の上に気の流れをブロックするつっかえを作ってしまいます。それはまた、天から降り注がれ、母なる大地からもたらされる無条件の愛をも押しとどめてしまう原因ともなります。またタオでは愛とは心臓の中に住んでいるエネルギーであると考えています。この愛のエネルギーは、外からの刺激によって活性化することが可能ですが、それはまた体の内面で目覚めさせることもできます。私たちは愛を求めるという根本的な欲求を満たしていくために、まず愛のエネルギーで各器官と腺を補給していくことから始めます。内笑膜想のような実修によって、それが可能となるわけです。

自分を愛することを学ぶときに忘れてはならないのは、私たちの内面にある愛のエネルギーすらも、実は、無極である元気の中から派生したものである、ということです。それは、このハートのエネルギー(愛)が私たちの神聖なる源である字宙的な普遍の愛とつながっている、ということを意味しています。多くの人たちはこうした愛の源と自分とのつながりを理解することがむずかしいために、自分は神なる愛から見捨てられてしまったように感じています。それはまた、人々が自分の内側に住む自己(インナー・セルフ)とのつながりを失ってしまい、いかにして内面にある愛に触れることができるかをも忘れたためでもあります。その結果として、普遍の愛とのつながりの感覚を喪失してしまったのです。神の愛には限りというものがありませんが、この愛は、からだというとても小さな容物の中で顕現されます。

そして、この愛の内なる源と外なる源とがつながっていくためには、常に内側に注意を向け、両者をうまく協調させるべく自分自身を整えておかねばなりません。まず最初に、自分の内側に存在する愛を育みながら、次に天から注がれた無条件の愛と、大地の母からもたらされた穏やかさや優しさを引き込んでいく能力を身につける必要があります。

タオでは、各内臓にはそれぞれに国有の魂と、霊と、勇ましきエネルギーとが宿っていると信じられています。内臓のこうした諸側面を愛と尊敬の念をもって育めば、やがて全身の働きは改善され、からだを一つの全体として愛することができるようになります。人柄や態度というものも、日常生活においては、しだいに自に見えて変化してくるようになります。こうした変化は、愛のもたらす効果というものが、からだの各部分のみならず、思考や霊性の領域にまで浸透してきていることを表しています。自分を愛することを学び(それは決してエゴイズムや自己陶酔と混同してはなりません)、そして、宇宙的な普遍の愛とつながることによって、人は豊穣なる愛に満ちあふれ、それを他の人たちと分かち合うようになるのです。そのためには、ただ練習こそが鍵となります。

無条件の愛が慈悲をもたらす

自然界や宇宙というものが残酷なように感じられることがあります。強者のみが生き残っていくように見えるものです。そして人間だけが、自らに弱さがあるがゆえに弱者に同情してしまいます。人間が持つ弱さがあるからこそ、私たちは愛というものに条件をつけてしまいます。しかし、本当は愛に条件などありません。タオでは、慈悲というものを、徳が最高度に表現されたかたちであるとして讃えています。慈悲は、同情ではなく共感(エンパシー)を土台としているからです。そしてそれは、人間の弱さというものを超えた高揚した意識状態をもたらします。慈悲によって、人は何かの条件をつけることなくただ愛することができるようになり、そして世界を苦しみに満ちたものとしてではなく、ただ世界それ自体としてあるがままに受け入れられるようになるのです。

引用文献:「タオ人間医学」マンタク・チア 著

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